「果報は寝て待て」
昔からよく聞くこの言葉を、今になってしみじみと感じています。焦らず、頑張りすぎず、今できることをして、あとは流れに任せる。最近の私は、まさにそんな日々を送っています。
※このブログは、体調の変化をきっかけに「今を丁寧に生きること」へと気づきを深めていったシリーズの最終話です。
これまでの流れはこちらからご覧いただけます。
▶【第1話】「クローン病の合併症でICUへ:それでも“幸せを向けるか”を問い続けた日々」
▶【第2話】「自分で選んだ“回復への第一歩”」
▶【第3話】「“ないもの”ばかり数えていた私が、“あるもの”に気づいた日」
▶【第4話】「“やらなくちゃ”を手放したら、幸せが入ってきた」
▶【第5話】「やさしく今を生きる〜欲がすっと消えていく感覚」
「果報は寝て待て」とは?
このことわざの「果報(かほう)」とは、幸せな出来事、良い知らせ、めぐり合わせのこと。「寝て待て」は、“慌てずに静かに待ちなさい”という意味です。
つまり、「良いことは、焦らず心を整えて待っていれば、ちゃんとやってくる」という教え。
江戸時代から庶民の間で親しまれ、仏教の「因果応報」の考えにも通じています。良い行いを続けていれば、良い結果が自然と巡ってくる――そんな静かな信頼の言葉です。
未来を追いすぎていた私
このシリーズのはじまりは、体調を崩し、入院した出来事でした。
あのとき、先のことが何も見えず、不安ばかりが心を埋め尽くしていました。
「これからどうなるんだろう」
「仕事は大丈夫かな」
まだ起きてもいない未来に、気持ちが押しつぶされそうになっていました。
けれど、「今できることをひとつずつやろう」と決めてから、少しずつ心が整い始めたのです。
深呼吸をする
できたことを数える
よく眠る
よく食べる
そして、今を感じる
そんな小さな習慣を重ねるうちに、ふっと力が抜けていきました。
「今」に目を向けると、必要なことがやってくる
不思議なことに、「もっと仕事がほしい」「何かしなくちゃ」と思っていたときよりも、「今日は静かに過ごそう」「今ある幸せを味わおう」と過ごすようになってからの方が、自然と講演の依頼や、オカリナ教室への見学申し込みが届くようになりました。
それはとても素直に、嬉しいこと。
でも同時に思います。
欲を手放したその先に、また欲が生まれていないか?と。
「手放すと入ってくる」
そんな言葉を聞くと、「じゃあ手放そう」と、心のどこかで期待してしまう。
だから私は、そこに気づいたら、一歩引いてみるようにしています。
それはもう、“結果を求めている”時点で、欲と似ているのかもしれない。
「欲を手放す」ことが“手段”ではなくて、本当に“心をゆるめること”であってほしいと、そう願うのです。
今日も朝起きて、空を見て、ごはんを食べて、笑って、少し疲れて、また眠る。その繰り返しのなかに、十分な幸せがあること。それが、今回のシリーズで私があらためて見つけた宝物でした。
「果報は寝て待て」――
なんてよくできた言葉でしょう。
あれこれ動き回って、無理に何かをつかもうとするのではなく、今やるべきことをやって、あとは静かに、流れに任せる。
それは、怠けることでも、諦めることでもなく、「信じること」なのかもしれません。
これまでの私は、知らず知らずのうちに「結果」や「評価」に縛られていたように思います。
でも今は、
「何もない日も、ちゃんと人生は動いている」
そう思えるようになりました。
このシリーズは、今日でひと区切りにします。
けれど、またきっと、続きが生まれることでしょう。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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