「いのちの授業」で私が伝えたかったこと

ある中学校の体育館で、約400人の生徒を前に「いのちの授業」としてお話しさせていただく機会がありました。

私がそこで伝えたのは、とてもシンプルなことです。

「自分を幸せにできるのは、自分だけである」

言葉にすれば当たり前のように聞こえますが、実際に生き方として引き受けるには、勇気のいる考え方でもあります。

私たちは、「人のため」「思いやり」「正しさ」といった美徳を大切にしてきました。
それ自体は、決して間違いではありません。

けれど、それらを優先するあまり、自分自身の心を後回しにしてしまうことも、少なくないのではないでしょうか。

「わがまま」と「自分の幸せを大事にすること」は、同じではありません。
誰かの期待に応えるために自分を削るのではなく、まずは自分自身の幸せを自覚すること。
それが、ぶれない自分をつくる土台になる。

そんな話をしました。


「校長」「先生」「外部講師」というフィルターの向こう側

講演が終わったあと、校長先生や担当の先生方からは、このような反応が返ってきました。

「後ろの方で寝ている生徒もいましたね」
「普段私たちが言っていることでも、外部の人が言うと聞くんですね」

この言葉を聞いたとき、胸の奥に、言葉にならない違和感が残りました。
帰り道、その感覚を手放せないまま考えているうちに、そこに大人が陥りやすい危うさが凝縮されているように感じたのです。

大人は無意識のうちに、物事を「立ち位置」や「序列」で整理してしまいます。
校長、先生、外部講師。

そうした役割のフィルターを通すことで、目の前で起きた出来事は、「外部の人間という珍しさへの反応」として処理されてしまう。「誰が言ったか」という属性が、言葉そのものの価値や、聞き手の内側で起きた変化よりも、先に立ってしまう。

それは、言葉を言葉として受け取る力を、知らず知らずのうちに鈍らせているのではないか。
そんな違和感が残りました。


生徒たちの言葉が示していた、動かない事実

講演から二週間ほど経った頃、全生徒分のアンケートが送られてきました。
私はそれを、一枚ずつ、丁寧に読みました。

そこにあったのは、大人の懸念や分析とは、まったく別の事実でした。

多くの生徒が、一時間の講演の中で心に残った言葉を拾い上げ、そこに自分の経験や、これからどう生きたいかという思いを添えて、びっしりと書いていたのです。

それは、「外部の人だから聞いた」というような軽い反応ではありませんでした。
一人の人間が発した言葉を、一人の人間が真正面から受け取った痕跡でした。

「この子たちには、ちゃんと届いていた」

それは感動というよりも、事実としての確信でした。


肩書きをすべて剥ぎ取ったとき、何が語れるか

私たちは、つい「何者か」であろうとします。
肩書き、役割、立場。
それらは、社会を生きる上で確かに必要なものです。

けれど、そうした属性をすべて剥ぎ取ったとき、最後に残る自分には、何が語れるのでしょうか。

校長、先生、専門家。
その看板をすべて下ろし、一人の人間として誰かの前に立ったとき、あなたの言葉には、どれだけの重みが宿るでしょうか。

肩書きがなくなったとき、
あなたは一体、誰なのか。

今のあなたは、
一人の人間として、何を語りますか。


おわりに

私は、正しい生き方や答えを教えるために話をしているわけではありません。
ただ、一人ひとりが自分自身の言葉に戻っていくための「問い」を置いていきたいと思っています。

講演も、これから始める個人セッションも、その延長線上にあります。

もし、言葉にできない違和感や、立ち止まって考えたい問いを抱えているなら、それを一緒に見つめる時間を持つことはできます。答えは、いつもその人の中にあります。私は、その場所に、そっと光を当てる役割でいたいと思っています。


このような問いを軸に、学校・自治体・企業などで講演を行っています。
内容や形式については、こちらの講演ページをご覧ください。
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