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人生を変えるなら、まず環境を変えてみる
「人生を変えたい」と思ったことはありませんか。
私がある人から教わって心に残った言葉があります。
「人生を変えるなら、場所と時間と人を変えなさい」。
偉人の名言というより、身近な人から聞いた一言でした。それをきっかけに、私は自分の生きるフィールド(環境や人とのつながり)を変えてきました。
私は「人生を奏でる講演家」として活動し、オカリナ演奏もYouTubeで発信しています。
たとえば『吾亦紅(われもこう)』は、人生の深みを音色に重ねて吹いた一曲。もしよければ、そちらものぞいてみてください。
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今日はそんな私の体験を少し綴ります。
「環境を変える」とはどういうことか、きっとどこかで共感していただけるのではないかと思います。
音楽大学に進学したとき、生きるフィールドは変わっていた
もともとの私の生きるフィールド…それは、親が与えてくれた「ごく普通の環境」でした。新興住宅地に家を買い、周りと同じように育てたいという両親の思い。ピアノを習わせてもらい、近所の友だちと遊ぶ、平凡で穏やかな日常。
その延長線上で、中学生になるとフルート教室に通い始めました。先生に褒められるのが嬉しくて、練習にも熱が入り、みるみる上達。夢は「いつか自分のフルート教室を持てたらいいな」という小さなものでした。
音楽大学に進学したとき、生きるフィールドは変わっていた。
同じ夢を持つ仲間と語り合い、切磋琢磨する日々。その競争社会に身を置くことで、私の心に火がつきました。
「世界一の演奏家になる」。
小さな夢は、大きな野望へと変わっていったのです。
病院が日常になったとき、人生は一変した
音楽大学で夢を追いかけていた最中、私は難病クローン病を発病しました。
その瞬間から、人生のフィールドは急激に変わっていったのです。
治療を続けながら学業をこなそうと必死でしたが、次第に病院にいる時間のほうが長くなっていきました。夢を追っていたはずの生活が、いつしか検査や点滴が中心の生活に変わっていく。病室の窓から外を眺めることしかできない日が続きました。
それでも、音楽の舞台に立つチャンスは何度も巡ってきました。しかし、再発という壁が行く手を阻み、前へ進もうとするたびに立ち止まらざるを得ません。
友人たちはそれぞれの道を歩んでいきます。演奏会に出演する人、音楽活動を広げていく人。
その姿を横目に見ながら、私はベッドの上で「自分だけ取り残された」と感じていました。
こういう「自分だけ取り残されたようだ」と感じる瞬間は、誰にでも少しはあるのではないでしょうか。
社会復帰の大きな背伸び
引きこもりの日々を過ごし、震災で生き方を見直し、再発と手術を経て…社会に戻ろうとしたとき、私は大きく大きく背伸びをしました。体力も気力も十分ではなかったのに、無理をして立ち上がろうとしたのです。
仕事を覚えること、人と関わること、日常のリズムを取り戻すこと… 一つひとつが挑戦でした。そのフィールドに、必死でしがみついていました。
今思えば、あのときの自分は綱渡りのような状態でした。「ここで諦めたら終わり」と思い、できることを精いっぱいやるしかなかったのです。よくあそこまで頑張ったな、と今では思います。
無理をした、無茶をした経験は、きっと誰の人生にもあるはずです。
そして、その時期があるからこそ今の自分がいる。
ようやくそう思えるようになりました。
大阪へ移る決断とH子さんの言葉
10年前、本当に人生を変えたいと思ったとき、背中を押してくれた人がいました。
その人…H子さんがくれた言葉は、今も忘れられません。
「淀川を渡って大阪で住みなさい」。
神戸の人にとって、淀川より東はまるで異文化。皆さんの想像以上に、大きな決断だったのです。
神戸を離れる不安の中、私は6万円ほどの物件を探していました。するとH子さんは、「15万円で探しなさい」と。驚きました。けれど金額を上げて探すと、8万や9万の物件が出てきます。それでも払えるかどうか悩む私に、H子さんはこう言いました。
「そのくらい働いて稼ぎなさい。できないなら実家に戻りなさい」。
厳しいけれど、温かい言葉でした。
どうにもならない状況でも、どうにかするしかない。そのときの覚悟が、今の私を形づくっているのだと思います。
体調が厳しかった日々(覚悟の時間)
当時の体調は本当に厳しく、ちょっとした移動にも気合いが必要でした。駅までも気合い、電車の中でも気合い、目的地に着くまで気合いです。
実家に戻れば楽になる道も確かにありました。母のそばで暮らせば安心できるし、周りからも「戻ったほうがいい」と勧められました。
でも、私はその道を選びませんでした。
フィールドをもとに戻すということは、これまでがんばった自分を否定するようなものです。やっぱりだめだったというあきらめの人生を生きることになるのです。たとえ無理をしてでも、大阪で生きると決めました。
その決断を支えていたのは、大きな夢や希望ではなく、小さな小さな覚悟の積み重ねでした。
選択には、いつも小さな覚悟がついて回ります。あのときの私にとっては、その覚悟こそが唯一の支えだったのです。
支えてくれた人たち — マンパワーが発端となって
この10年は、倒れては立ち上がるの繰り返しでした。フィールドを変えるどころか、自分の居場所がどこにあるのかさえ分からない時期もありました。
それでも、そのたびに私を支えてくれる人たちがいました。背中を押してくれる人、黙って見守ってくれる人、失敗しても笑って許してくれる人…そんな存在があったから、私は何度でも立ち上がれたのです。
そして、大阪のマンパワーが発端となって、「夢の応援団」と名のつく後援会までできました。そこに、これまで出会ってきた多くの人たちの力が重なり合い、私をさらに引き上げてくれたのです。
自分ひとりでは到底たどり着けなかった場所へ導いてくれたのは、間違いなく、その出会いのすべてでした。
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感染症がもたらした試練と選択
当時はそこまで力をいただいたのに、世の中は突然変わってしまいました。感染症の時代がやってきて、仕事は次々とキャンセルになり、すべての収入源が断たれました。病気のことよりも、むしろ「明日、生きていけるだろうか」と不安になるほどの切迫感がありました。
収入が途絶え、先行きが見えない。家賃や生活費のことが毎日頭をよぎり、再び実家に戻る選択肢が現実味を帯びてきました。頼れる人に相談しても「戻った方がいい」と言われることも多く、その声はいつも優しくもあり、重くもありました。
けれど、大阪にはすでに私の居場所ができていました。応援してくれる人たちの存在、繋がりのネットワーク、それがあるからこそ、簡単には諦められなかったのです。結果として、私はここに留まり、再び少しずつ前を向く道を選びました。
その選択も、安全で楽な道ではなかったけれど、私にとっての「生きる覚悟」だったのです。
いま立っているフィールドとこれから
気づけば、かつて無理をして背伸びしていたフィールドが、いまでは自然に暮らす場所になっています。
資格も、地位も、名誉も、財産もない私。
それでも、10年前の自分には想像できなかったフィールドに立っているのです。
ここまで生きてきて、ようやく気づきました。未来を大きく望まなくても、「今が楽しい」と思える瞬間があること。それだけで充分だと感じることもあります。
とはいえ、また少し背伸びしてみたい自分もいる。
これは多分、私の性分なのでしょう。
「私はどこへ向かうのだろう」
その問いを胸に、これからも一歩一歩歩いていきます。
人生を変えるには、環境を変えること。
それは背伸びであり、覚悟でもあります。
背伸びは怖いけれど、そこに新しい景色があります。あなたの次の一歩も、きっと誰かの未来につながっていきます。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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これまでに多数のテレビ・ラジオ・新聞・雑誌で活動をご紹介いただきました。主な出演・掲載実績は以下の通りです。
- フジテレビ「奇跡体験アンビリーバボー」出演
- 読売テレビ「24時間テレビ」出演
- テレビ東京「生きるを伝える」
- NHKラジオ「ラジオ深夜便」出演
- 朝日新聞・読売新聞・神戸新聞等、多くの紙面に掲載
- ラジオ関西をはじめ、複数局に出演
- 週刊女性、女性自身等、数々の雑誌インタビュー掲載
2025年5月22日朝日新聞ひと欄掲載(全国)
『幸せを向いて生きる』(星湖舎刊)
病気や挫折、夢の中断から再び歩き出すまでの実話をもとに、人生を「楽しい」に変える選択のチカラについて綴った一冊です。講演やコンサートでは話しきれないエピソードや、日常で実践できるポジティブシンキングのヒントも収録しています。


