終戦の日に、いつも父のことを思い出します。

まったく知らなかった父のことを。

 

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パワーオカリナライブ:東京恵比寿アートカフェフレンズ

ご参加の方は下記よりお申込みください。
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9月7日(金)18時開場・19時30分開演 Charge:\6,480-(前売)今回、チケットを作っておりません。大変勝手を申しますが事前のお振込みでご予約完了とさせていただきます。ご了承ください。

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戦後生まれの私は、戦争とは無縁の新興住宅地で育ちました。父はサラリーマン、母は専業主婦。至って普通の家庭です。周りの環境も、難しいことをシャットアウトするかのように穏やかでした。

夏休みの中ごろ、いつも見ている番組の時間に追悼式典が行われていることも、自分とはあまり関係のないことのように、興味を持って見ることはありません。そして、お盆休みの父は、その番組を観ていたようにおもいますが、何ひとつ戦争の話をすることはありませんでした。父は2000年に他界したのですが、それまで一度も私に何も話てくれませんでした。

 

10年ほど前のこと。

各地で講演をしている私に「戦没者追悼式典」の依頼がありました。正直、なぜ私に?と思いました。戦後生まれで、戦争のことも歴史の時間に学ぶ程度で、何にも知らないのに…と、躊躇しましたが、コンサートをしてほしいということでお受けすることにしたのです。

コンサートと言っても90分の講演の中で演奏するというものですので、戦争について話さなくてはいけないことはわかっていました。しかし、付け焼刃で話せるものではありません。少々困ったな…と思い、時折り、戦後のことを話してくれた母に聴いたのです。そして、知らなかった父の過去を知ることになりました。

 

父は沖縄生まれ。

祖父は那覇で「サクライ洋品店」を営んでいました。商売は繁盛したようで、後からわかることですが、今でもネットで名前を検索すると出てくるほどがんばっていたようです。祖母はもともとお嬢様らしく、お手伝いさんが何人もいてお世話をしてもらっていたと聞きました。知らないことばかりです。祖母は7人の男子を産み、それはそれは幸せだったと思います。

 

しかし…

 

沖縄は戦場になっていきます。

国は、一般市民へ県外へ疎開することを勧めました。180数隻の疎開船で6万人近い人が九州や台湾を目指したそうです。詳しい様子までわかりませんが、母の話では、祖父は持てるだけのお金を持って、家族(父は当時中学生くらい)を連れて、疎開船に乗り込んだのです。何十隻もの船が本土を目指す中、次々と魚雷に打ち沈められていきます。その光景はどんなだったのでしょうか…。想像もできません。

父がひとことも話さなかったのは、思い出したくない出来事であったことは間違いなく、それは、恐怖だけのことではないのだろうと想像します。当時、日本が負けるとは全国民が思っておらず、国が疎開を勧めても、沖縄に残る人が多くいたということです。父の友人たちもきっと島に残られたのだと思います。

 

私がこうやってブログに書いているということは、祖父一家の乗った船は無事に四国へたどり着いたからです。その後、終戦を迎えました。終戦後はまた別の意味で祖父や父は苦労を重ねていきました。そのことはまた別の機会に書きますね。

戦没者追悼式典にお声をかけてもらわなければ、今でも知らない出来事だったと思います。教えてくれた母に感謝です。今では「受け継いできた命」と題して、この話を各地でさせていただいています。ひとつだけ後悔しているのは、父が生きているうちに、たくさん話をしなかったこと。とても悔やまれます。

 

今日も生きている。

平和は願うものではなく、守るもの。

 

終戦の日に父を想う。

 

 

さくらいりょうこ🌸