この記事を読みました

文中より・・・

オックスフォード英語大辞典によれば、シンパシーとは「(1)誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと、(2)ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為、(3)同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」とあります。一方、エンパシーとは「他者の感情や経験などを理解する能力」とあります。

とあり、これを読んで、私の中にあった今までのモヤモヤがクリアになってきました。

以前、「思いやりという言葉を使わなくなった」と、このブログに書きました。人権講演をやるのに語彙を持たない私は、安易に「思いやり」という言葉でごまかしてきていたことに気づいたのです。

すべてがそうとは言えないかもしれませんが、私が受けた「思いやり」の言葉は、ほとんどが同情でした。

病気になってもまだ夢を追いかける私は、とてもがんばりたかった。それなのに、みんなは「がんばるな」と言いました。私の体を気遣ってのことです。その時の私は、病気が大変なことはわかってるし、痛みは必死で堪えていて、それでもステージに立ちたかったんです。その応援をしてほしかった。という記憶があります。

そして、腸閉塞を破裂させて、本当にがんばれなくなった時に、みんなは「がんばれ」と言いました。私の気持ちなんて誰にもわからない。と心を閉ざしたことは忘れません。その時の私はただ、誰かに傍にいてほしかった。それだけが望みでした。

腫れものになっていってしまったのは、自分のせいです。

思いやる言葉は見当はずれなことが多いのです。

その人が悪いのではなく、経験をしたことのない人がわかったようなことを言うのがよくないのです。

上の記事を読んで気づいたのは、私はこの時期からエンパシーの能力を高めていっていたのかもしれません。エンパシーを検索するとスピリチュアル的なことが出てきますが、私はまったくそういう能力はありません。

ただただ、自分の経験から、相手に言葉をかけるのか、かけないのか、相手の立場等も考えて、言葉を選んできました。

この ブレイディさんが書かれているとおり、言葉を選んだり、相手の気持ちを想像していくと、極端に自分を抑え込んでしまいました。そして、どうして良いのかわからなくなっていきます。

そういう時期が何年か続いたように思います。

しかし・・・

私が少し違うのは、相手の気持ちに合わせていくのに、自分のキャパを超えたり、自分にはない気持ちでずっといると・・・ある日、本音が飛び出すのです。

これで人間関係がうまく保てなくなりました。

自分でもどうしてそうなるのかな~って悩んでいたんです。

記事に出てくる伊藤野枝 さんの言葉に、自分を見ているような気がしました。

「私は自分がわがままだといわれるくらいに自分の思うことをずんずんやる代りに人のわがままの邪魔はしません」

ブレンディさんは『この伊藤野枝さんのようにあらゆる支配を拒否する、自分はこうありたいという自分自身の軸を持っていなければいけません。すなわちアナーキーでなければいけない。今の時代を生きる女性たちには、この「アナーキック・エンパシー」(私の造語です)を自分のものとすることをおすすめします。』 と書かれていました。

自分自身の軸。

今、まさに、その学びをしています。

少し、人と違うと感じてきました。優しい人になりたいと思うのに、なれない自分がいました。意地悪なではないつもりだけど、いわゆる優しい女性には程遠いのです。

元気になった今、人の応援をしようと、小さなことから始めています。恩返しもしていきたいと思います。優しい女性ではなく、勇気や励ましを伝えていきたい。私が力になれることがあるなら、なんでもやりたい。同情や哀れみではなく、同調もせず、必要であれば傍に寄り添う。そういうスタイルで生きていきたい。

私の生き方が、誰かの勇気に繋がること、これが願いです。

●さくらいりょうこ「夢の応援団」にぜひご入会ください。

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